考察:人間の行動

 行動科学とかそういう分野で総合的な話はされているのかと思ったのだが、非常に詳細多岐に渡った奥深い学問で、まじめにやっては総論的なものに行き着くのが大変なためか、そういう総括分野がない。研究者のかたは自分の専門の見地からブログやエッセイで書かれているんだろうな、ちょっと興味もっただけの私なんかより高い見識あるんだろうなと思うのだが、ここはみなさんにせせら笑われようとやったもんがちで言っちゃっていいような気がする。
 大失敗かも知れないがどうかご笑覧あれ。

 まず、挑戦的な前提から
 人間は目的のない行動はできない。
 ここでいうのは意識的な行動で生物学的な反射や睡眠中の寝返り等などではない。
 特に目的のない行動、というものはあるが、それとて「何かを発見する」「気分転換」といった漠然とした目的でなければ自分でも制御できていない衝動的なものである。ちまちま例をあげていっても網羅しきれないし、乱暴ながらここは断言しておこう。
 そして目的はさらに別の目的達成のためのマイルストーンであり、その大きな目的はさらに・・・となる。いわゆる漠然とした目的にもちゃんと役割があるのだ。
 しかし人生の目的なんて、最初から決まってるもんではない。人生の目的なんてもんは持たなくてもいいし、ころころ変えたっていいものなのだ。
 いや、むしろこう言おう。人生に目的なんぞないのだ。ついでに言えば価値もない。
 生まれてしまった。この時代、この時、この場所に。体が生きたいといっている。しょうがないから生きていこう。ずっと面倒になったら死ねばいい。そんなもんだ。
 プロジェクト・マネジメントの世界では達成目標があり利用可能な資源、期限などの制限事項などをそなえた活動をプロジェクト、継続的活動をプログラムと呼ぶ。人生はプログラムであり、人間の行動は人生プログラムの各局面のプロジェクト(これもさらに達成のためのサブプロジェクトへとどんどんブレイクする)である。
 では、人間はただ生きるだけでいいのか? それだけだと動物と何も違わないのではないか。
 動物と人間の違いは、動物は工夫はできるが目的そのものの修正ができない、あるいはむずかしいということだ。進化のきびしいがゆるやかなふるいが動物の行動を適正化するなら、人間は自分の目的や考え方を修正する能力をもって一世代の間に劇的に変化することが可能なのだ。修正の目的はより根源的な目的を達成するためにもっと葛藤や無駄のない方法を得るため、ではその根源的な目的はそのままでいいのか? いやもっとも根本的なものはなんだ? そこをつきつめて哲学が生まれる。
 宗教でさえ、方法論の一つにすぎない。自堕落に生きないために、他人のようにごまかせない神の目を意識して恥じない生き方を心がける。自分に制約をかけるため少しロスは出るが全体としては無駄のない生き方ができる、社会の秩序と向上に寄与できるといった感じだろう。
 人生に目的や価値はないといった。これは事実である。そんなものはあれこれ悩みながら自分でっちあげていくのである。そしてそれを他人と共有することで修正、改善していくもんである。宗教的な価値観だって自分で受け入れて初めて成立するのだ。はじめはただなぞるだけでも最後には理解しないと結局は信心をもったことにはならない。自分で受け入れなければただの妄想なのだから、他人に強要するなどまことにナンセンスだ。
 受け入れた価値観などによって、自己の人生プログラムの終了条件をきめることができるのも人間の特徴だ。殉死したり、艦長が戦艦とともに沈んだりするのもこうして起こる。
 だが、人間はどんどん変わっていけるものなのだから、そういう機会を逸したからといってふさぎ込むことはない。人生プロジェクトの終了条件なんてなんぼ変えていってもいいのである。節なんかいくら曲げたってかまわない。そのせつなせつなに納得の行く行動(後から思えばこっぱずかしいものであってもかまわない)を心がけていけばいいだけなのだ。その結果が自分の死であるかどうかはささいな問題だろう。
 人生いたるところ青山ありとはよくぞいったものだと思う。

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 結論を忘れていた。結論といいながらいろいろ追加する。
 人間は目的達成のため意思決定し、行動する。
 目的はリソースの限界や他の目的との葛藤につきあたる。(たとえば「資金不足」「時間不足」、「良心」や「信仰」)
 葛藤や限界に達したとき、人間は目的や価値観に修正を加えることができる。(命を守るためにやむなく、大義のために小義を殺すまで、など)
 一度実施した修正はもう戻せない。復帰するためにはアウフヘーベンによる昇華などのテクニックがある。
 これらの修正は他者との比較などで適正化されていく。偏向した集団ではこの適正化は偏向をさらにすすめることがあり、まるごと淘汰される悲劇も起こりえる。引きこもりはそれの一人版かもしれない。
 ※修正、適正化は局部的なものに終わってしまうことが多い。このため、自分の意志と判断によるものではなく、他者より観念的な制限を受けることで迷走を防ぐいわゆるガイドラインが信仰である。これらもまた、自分で意思決定し、受け入れた目的、価値観である。これは「天地に恥じぬ」程度でよくそれがどういうものかを知っていれば十分機能する。単なる盲信では十分に機能しない。必ず自分の都合のよいように解釈を曲げる。