サマーウォーズ他所感

 試写会を見た人がおもしろかったと書いていたのでサマーウォーズを見に行った。先日、TVで放映されたのを一部見たが面白そうだったので時をかける少女をDVDで見た。
 それぞれについてまずポジティブな意見、そしてネガティブな意見、総括という感じで感想をまとめてみようと思う。
 …思うようにいってなくてもご容赦。

サマーウォーズ
 ストーリーを生かし、なめらかにするために必要なご都合主義や大嘘は惜しむべきではないと実感する一作。とにかくご都合主義といえそうなものを列挙すると大変な数になるのだが、ストーリーに乗っている限りこれを感じない。逆についていけなくなると苦痛になるリスクがある。楽しめる人は感情のいろんなバルブあけられてしばらく尾を引くくらい楽しめる。かなり多数の人はそうであろうと思われる快作だ。
 大家族礼賛というふうにとらえている人が多いが、大家族というのは血縁による相互扶助集団であり、それだけということは絶対にないが、といって打算抜きで成立するものではない。打算のもっとも露骨なものは宗主死後の財産分与であり、軽微なものは不景気などで不遇になった時の避難所である。ルール、気遣い、いやな相手にでもきちんと挨拶といった制約はあるが、生きていく上で安心のできるものではある。
 サマーウォーズの大家族を束ねているもの財産ではなく、宗主であり、祖である老婆への思慕である。財産は失われていることになっている。大家族を支える柱のいやらしいが大事な一本が抜けているがゆえの世間の評価であろう。ゆえに老婆が死去すればこの大家族の集まりは雲散する。大勢で食卓を囲み、血縁の子供たちがそこはかとない同族意識を醸成しながら遊ぶあの風景はそれまでの祭りなのだ。それゆえに老婆の養子であり先代の隠し子である男は大金を手にしようと渡米した。一族を一番愛していたのは彼という見方もできる。
 さてこの老婆がかわいらしい。何がかわいいって笑うときに歯がないのがわかる笑い方をするところである。武家かたぎの厳格な老婆ということになってるが、それは積み上げてきた歳月の折り重ねによる強さであり、スタートはヒロインのようなちょっとバカな子供だったことをうかがわせる。老婆はひ孫のヒロインに若いころの自分を見、主人公の男の子に若いころの夫か恋人を見ていたんじゃないかと思っている。そうでなければ最初の面会で彼を気にいる理由がない。史上最大のコイコイ勝負で、くず折れそうなヒロインが世界中の人々に支えられるシーンは、財産を失っても一族やそれ以外の人脈に敬慕されていた老婆からひ孫へのバトンタッチだったのかも知れない。
 時をかける少女でもそうだったが、この監督のヒロインは子供でバカでふらふらと定まらないところから泥まみれになり、子供のようにべそをかいて大人へと一歩踏み出すという図式になっている。
 さて、ネガティブなことに移ろう。といってもたいしたものではない。
 ご都合主義のジェットコースタームービーであるという点のほかには、実にたいしたことではないが、最後に一族承認のもとキスしろよと背中を二人押されるシーンがあるが、このへんに本人同士の気持ちより一族の都合的なものを感じてギャグシーンに変なリアリティを感じてしまって興ざめ気味になったことと、このときのヒロインの表情がそういうシーンでの過去のさまざまな作品のヒロインどものステレオタイプ的だったことが仕上げの甘さを感じてしまったことだけだ。たぶん、このへん気にしたのは私だけだと思う。

時をかける少女
 中性的なヒロインがひょんなことから時間跳躍能力を身につけ、思慮なしに自分の不運を他人に転嫁したり回避したり、おせっかいをやいたりしているうちに一人失恋状態になったり友達を死なせそうになったりやったことが思わぬ裏目に出てばたばたする青春映画。
 他人が修正された時間線の中にいるのに、自分だけは連続した時間線の中にいるがゆえに起こるさまざまなできごとに筒井康隆の原作へのリスペクトの入った新しい時かけ少女。細かい演出の丁寧な映画だ。
 保健室のシーンではほんの数語の会話で気になる男の子と同級生の友達が深い関係になってることを思い知らされたりなどなかなか小憎いですな。で、それを無造作にどんどん修正していく。それが思わぬ結果となってまた修正に・・・時間ものとはこういうものだと思い出させてくれた好作品だ。
 ネガティブなことを言えば、先代(原作)ヒロインの叔母さんがかなり不自然。
 原作を読み、そのヒロインだということを知っていなければわけのわからない人でしかなく、また知っていたら知っていたで記憶を消されているはずなのにタイム・リープという言葉が自然に口をつく、姪がその能力を持っていることを即座に理解し、迷いもなにもないという点でなにこのなんでもわかったような口きく変な人。この人に、最初の偶発的跳躍で何が起こったかの説明をさせてるところが目について苦しい。
 他にもおかしなところはあるんですが、ここは一番失敗してるところだねぇと思う。

総括
 「未来でまってる」
 どんだけ未来じゃぁと思わず突っ込んだのは時かけ少女の最後のほう。
 いいシーンのはずですが、待ってるものが彼女自身ではなく、彼女が残してくれるはずの絵だということに気づけばなんとも壮大な恋の話よ、ということになる。これすぐに気づく人は少ないと思うが、よく考えたらそれができたら彼はこの時代に来なかったはずで…とタイムパラドックスを考えたら「やっぱ無理だろそれ」となるわけだ。この監督にはつきつめたリアリティなど無用のようだ。涙腺ゆるませるためなら手段を選ばない。
 ま、勘違いやそもそも無理なことを動機に人生決めても、最期に総じて満足であればよいのできっかけってのは勢いあればそれでよしというところ。
 両作品とも、要するにガキでしかない少年や少女が非日常的な事件をきっかけに人生の本当の冒険に漕ぎ出すという王道を踏襲している。この非日常的な事件がうらやましいんだな。自分にもそういう機会があればなんか化けてたかもとか、ついでに恋もひろえるなんてなーんてうらやましいんでしょ、と。でもその延長に自分を置くのはそう難しくない。
 かつて映画は夢の上演だった。ハリウッド黄金時代のきらびやかな映画も本当は憂鬱な日常があるからこそ銀幕に夢を見て生きる力を得るのであって、それがいわゆる娯楽というものだ。
 そういう意味で、よい娯楽作品だと思う。

※大家族行事について、補足
 本家があり、ここに正月や盂蘭盆に親類縁者があつまってわいわいやる大家族行事が日本から絶えていった原因はほかに 家長すなわち家制度の廃止、均等相続、過疎といったものがある。制度はともかく、一族相互扶助は特に育児の面で非常に助かる。いやほんと、新生児の母親ってろくすっぽ眠れないのよ。それをちょっと肩代わりしてあげるだけで虐待とかかなりなくなると思う。